綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

(「今週のお題」とは関係なしに)

ここの日記はそのままにして、Twitterや紙の手帳に移行していたけれど
自分と向き合いなおす作業の一環で、
また暫くブログの機能を使ってみようと思う。

コーチングのような、或るブログでのお題も、面倒がらず恥ずかしがらず、活用してみたい。
Julia Cameronの著作などではお馴染みの、「書く人」(必ずしも文筆家や小説家でなく、「芸術」活動にも限らない、創造的なあらゆる行為の源として重要な「言葉」を用いる人)向けの課題も、改めて取り入れていくかもしれない。

小さいようでも、目標に具体的な形を幾つか設けようとしているが、それらを更に具体化して取り組む過程も、公開していても違和感のない範囲でなら記録することもあるだろう。

元気の出る「テーマ曲」

ただただ好きな曲、震えるような音楽というのとは、違う。


それでも色々あるけれど、たとえば今の私なら

チャイコフスキー1812年序曲(朝)、
ワグナーのニュルンベルグマイスタージンガー序曲(昼前後)、
ヘンデルのラルゴ(柔らかめの自然光が差し込む所で落ち着いている時)と
サラバンド(蝋燭でも灯して落ち着いているとき)。

Peter Murphy/Cuts You Up、
Dalida & Alain Delon/Paroles, paroles、
Astrud Gilberto/Aqua de BeberとSo Nice (Summer Samba)、
Eartha Kitt/Let's MisbehaveとI Want to be Evil。


長調でアップビートだったり、それ行け頑張れといった歌詞がついているわけではない。
それはおそらく、「元気」にとは言っても、
明るさだけでない、包括的な力の凝縮こそが、
立ち上がって進むエネルギーを生み出すには必要だから。
でも、あくまでも平易な曲目だと思うのだけれど。
(野暮、キッチュにせず、健全な毒を価値あるものに変容させるような錬金術を駆使せねば!)

曇ったガラス窓越しに明けていく空の色、夜と朝のかさなり

長いお休みの後で、また戻ってきた。
自宅でコンピュータにアクセスする時間も作れず、あれこれ落ち着かないまま過ごしていて体調が怪しくなってきたところで、年末も自分の仕事が終わったところで連日、半分戸外で家業を手伝ったりしてからか、元日までお祝いの準備を整えるまでは頑張ったけれど、珍しく風邪がひどくなり、後はまさに「寝正月」。それでも、年中無休状態の家族とも御屠蘇、初茶、白味噌餡餅雑煮で新年を祝えてよかった。

自分用のヴィーガンお節料理は、あまり無理しない程度に元日になって短時間で作り、普段のお弁当よりほんの少しお祝いらしくなるよう盛り付けた。三の重を中心に、主なイメージはあったものの、作っているうちにささっと思い付いて作った料理が殆ど。作るうちに、アイデアが次々思い浮かんでどんどん面白くなってきたけれど、限られた品数でもお重に詰める体裁にはなりそうだったので適当なところで止めておいた。
一の重は、柚子がま(セロリと小蕪の柚子胡麻あえ)、百合根の梅肉あえと、頂きものの香川の醤油豆は、母が庭から取って来てくれたゆずり葉を三角に丸めて器を作って盛り付けた。他には南瓜のきんとん(干葡萄、枸杞の実、ひまわりの種入)。紅白なますは、家族用として酢で煮た鮭やイクラで和える前に取り分けて、干柿をアクセントにした。
二の重は、長芋の磯部焼、焼蕪、エリンギのバルサミコ風味ソテー。
三の重は、筑前煮(大きめに切った根菜たっぷり。三色の丸玉こんにゃくや、普段はあまり使わない大豆製のお肉もどきを入れ、色のアクセントは銀杏と三度豆)、昆布巻・高野豆腐・梅の花型に抜いた金時人参の炊き合わせ。

さて、今年は仕事場以外で自分のメンテナンスをどう進めるか。
12月になって、朝に目が覚めたところでそのままノート1枚分、自動筆記のように書くことを数年ぶりに復活させたけれど、以前ほど毎日書く必然を見出せないのと、30分ほどの時間を作れないことが多かったので、習慣化はしていない。
当面、書き物や勉強を何分、というより、片付け・掃除に毎日30分、という設定のほうがよいかもしれない。
昨日友人が、6月頃にでも勉強会で翻訳について話してみないかと提案してくれたので、準備の為に資料を読んだり纏めたりするのも今後の計画には入れたい。
創作は、思案のしどころ。例えば岩成氏が詩の言語について突き詰めていった結果、神学の研究に至ったのはこれまでのところ非常に必然的であったと納得できるのだが、このところ加速的に、「鬼っ子」である「現代詩」のみならず、言葉自体について、その根本だか、広義の喩といった一部だかは、かつての機能や意味合いを担わなくなっていくような気がしている。「表現行為」ではありえないとも考えている中、書く必然はあるのか。美しさ(非・美しさも含めて)、新しさは、どこにあるのか。
実務的な方面では、もちろん、法律系の勉強の続きも―近日中の結果がどうあれ、「勉強」が必要なのは間違いない。
身体は気付いたら動かすというぐらいで、簡単な体操やマッサージはしていた。11月にハンドトリートメントを一日講習で習ったので、反射区に沿った手順の応用で、たまに自分で足もしっかりほぐすことも試している。それでも、山に登って身体をじっくり伸ばすことが数度だけでは細かい部分の筋が硬くなりがちだと感じた。12月、山に登った折の一度はお餅つきを楽しんで、冬になって、また鳥の声や姿を楽しみやすくなってきているのも実感したので、冬の毎日登山には挑戦したいと思う。
書道は12月に久々に硬筆競書を送り出した勢いで、今年もぼちぼち続けるつもり。これも久しぶりに先生に習う機会も作りたいところ。美しい文字や篆刻、評論に積極的に触れるようにもしたい。

後ほど
マッサージや体操は簡単に。

アクアマリンを側に置いて寝ていたら、珍しく夢を見て、それを覚えていた。

その夢にも出てきた大切な友人の、誕生日。プレゼントは渡せないが、アメリカのフリーeカードサイトで可愛らしい、素朴な手書きタッチのモノクロの熊が、単純で鮮やかな(ウォーホルの初期デッサンみたいな)花束を差し出すバースデイカードを見つけだし、メッセージを付けて前日に予約送信しておいたのが無事届いた様子。Wishing he has always plenty of good things for now and ever. May a sweet piece of cake and a nice cup of tea (or bread & wine) be at his side anytime!
後で、彼の最新のおもちゃ、AGFAのデジタル・トイカメラでテスト撮影した、いまの彼のお誕生日ならではの写真が沢山メールで送られてきた。これも鮮やかな色彩がきらきらと並ぶ、バースデイケーキの果物のアップ。ニキ・ド・サンファールの絵が(他の被写体とも、私が送ったカードとも通じる色づかい、稚気を感じさせる)楽しげなラベルのワイン。彼の趣味教養や年齢とは(おそらく一般的には)ひどくギャップがあるような読書ジャンルなのに、ここしばらく集中してあれこれ読んでいて発見も多いという、ライトノベルの美少女キャラクターらしきノートPC壁紙など。

十三夜の栗明月。
家業の事務所で母や弟の仕事を待つ間、自分の仕事用ブログの原稿が溜まっているのをポメラで少し書き、行政法のテキストも開く。(誕生日を迎えた友人がメールを送ったと電話をかけてきたので、まだ自宅に帰っていないと言うと、毎日毎日女工哀史みたいに深夜まで働いているのは何とかならないんですか、どこかの国の貧民窟の話を聞いているみたいだなどと、いつもながら口の悪いことをいいながら心配はしてくれている。)
母と弟が揃ってから、にごり酒と焼き栗で、「あとの月見」のお祝い。

桜の枝先の葉一枚が赤みを帯びたことに気付いた瞬間、木々のすべての葉色が晩秋に向かっていたのが目に入る。

後ほど
体操、マッサージ、ルチルクォーツをサーモマグに入れてお白湯を飲むことなど、一日のうちごく短時間だけれど、細々続いている。
昼、仕事場近くの韓国お惣菜屋さんに行くと、見慣れない、小さな山人参か大根のような野菜の薬念和えがある。店のおばさまに尋ねてみると、「ええと、日本語でなんていうのかな、トドク(後で調べてみたところ、蔓人参だった)。韓国に行って少し買ってきたから作ってみたよ。シャキシャキして美味しいよ、ちょっとお高いけれど」と言うので、ちょっとだけ分けてもらう。普段買うお惣菜とあまり変わらない300円で、そこそこの分量だった。確かに、いかにも山の幸らしい歯ざわりを楽しむものだろう。味付けがかなり辛めなのは、薬効があるだけに、苦さや薬くささをくるみこむためか、人参の陽と唐辛子の陰でバランスを取るためとも思えるが、あまり多くは食べられない。でも、味わったことのない食材、知らなかった料理を試してみるのは、いつも楽しい。植物性のものだけでも、まだまだ世界は広い。
夜、これも細々と、法律テキストを開いてみる。残り時間が限られている。