綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

春の雷を聞きながら水を飲み、春の雨を聞きながらジャズ喫茶のコーヒーを飲む

今日ごとに今日や限りと惜しめどもまたも今年にあひにけるかな、というのは、長命の歌人が年の瀬を歌った冬歌ではあるが。春分を境に一年が新たなサイクルに入り、12月22日からの「課題」期間も当初予定の一区切りを迎えたことを思うと、新古今和歌集をぱっと開いてその歌が出てきたのにも意味を見出そうとしてしまう。
そこに貴族社会の構図や仏教思想の影響と切り離せない倦怠や諦観の賢しいポーズのみを見るより、肩をすくめながらのユーモア―繰り返されるようでも未だ新鮮であり続ける現実への驚き、新たな時間に対峙するのを引き受ける生の決意の瞬間などを無理やり透かし見たり、(もっと曲解して)一日ごとを最初で最後の日と見做して過ごすなら、一体どんな態度で、どんな過ごし方をするだろうなどと想像してみると面白い。
「どう転んでも明日になるだろう」と受動的姿勢から怠惰に陥るのは簡単だが、「日々自分の、少なくとも『その日の』極限まで行動してみると、不意の終焉を恐れる必要も厭きる間もなく、ちゃんと新しい時空が晴れ晴れ目の前に現れる」と心底から信じ、身体がそれにぴったり付いていくほうが、結局はずっと簡潔で愉快なのは明らかでもあり、それにも関わらず難しくしすぎてしまっているのは一体自分の何であるかを考えさせられる。

翻訳は、最後までチェック確定を終えて、職場などでも参考資料にしてもらえるようレイアウトも整えた。これまで意外に時間が掛かったけれど、この期間内に始めたことを仕上げられて嬉しい。ただし一晩寝かせてから、もう一度、日本語だけを通して読んで完了としたい。
法律は、テキストの続きを読んでいく。これも、期間内にもっと進めるような、もう一つ前のテキスト止まりのような、漠然とした見込みだったが、初めての分野だし久々の勉強なので、とにかくやってみて面倒さも面白さも含め体感を得ることで、やっとスタートラインを踏み出せた状態かと思う。

明日からは当面、法律の勉強に充てる時間を増やしたい。
でも、感覚や、身体の機能・力を磨いたり、詩に触れることはささやかでも続けるだろうし、その中で直接間接に「翻訳」にも関わることになるだろう。「どっちつかず」「気が多い」のではなく、理想としては、目的に向けた必然として矛盾や無理なく結びついた形で。

(文具店と昼食への外出の際、同行した友人が、このところの労働や養生の慰めにと「小さなプレゼント」をくれた。楽しげな地図の模様の封筒からは、幼い子どもが喜びそうなクマちゃんの形の、それぞれ違うボタンが四つ出てきた。今すぐ実用的な使い道というのは全く無いのだけれど、これもまた「宝石」のようなものだと思えた。)