綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

夕暮れの商店街、お好み焼きソースの強い匂いを通り抜けて歩いていけば、川沿いの道の向こう岸から、ふんわり桜の香り

帰路の移動中、古今・新古今集の桜の歌を読んでいたからか。妄臭なのだろうか。その木だけでなく、他の桜からも、これほど香りを感じたのは初めての気がする。
外出していた先は、ミロ晩年期の作品の展覧会。画集では分からなかっただろう、平面の「立体感」。同じモチーフ、タッチが続いても、不思議と自己模倣につきまとう衰弱や醜悪さを感じない。形ではなく、言葉のようだからか。意外な力強さと新鮮さ、作品同士が響き合う展示の面白さを堪能した。心身から切り捨てるべきものを排出しようとしている兆候か、少し極端な炎症や痛みが起きる奇妙な体調だったのだけれど、友人と約束していたので、多少無理して出掛けてみてよかった。体調もそのうちに落ち着いた。
一方、夜になって、日本という国の(相変わらずの)失態と、それも含め「風土やその他なに一つとして、日本には愛着が持てない」という一人の友人の(相変わらずの)持論を聞く―では私は?「愛着」の有無とは関係なしに、たまたま同じ地に留まり続けることで基盤がそこにできてしまっただけであっても、ある時から意図的に場に向き合う小さな実験を始めた筈が、身近な人たちが場に(外から来て「地域貢献」しつつ)対峙する立ち方との差異には折に触れ、意外にも苛立たされたりする。実際、セキレイメジロが他所にもいるなら、「ここ」にいる必然は無いのだろうか。考えさせられる。
就寝前、目を慣らすだけでもよいというつもりで、法律テキストのページを淡々とめくった。