綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

体操、マッサージ、お白湯に「美味水」とカーネリアン、ブルーアゲートにルチルクォーツ。
先日講演を聴いて非常によい感触のあった武道家の、一般向けワークショップに参加。いかにも武道をやっていたり、バレエやコンテンポラリーダンスの踊り手と見える人たちが多い(私も姿だけは、バレエのレッスンで使っていたレギンスやタイツなど着こんで、ダンサーに間違われる)。一緒に組んだ人たちは男女や人種年齢問わず、皆さん真摯で人や学ぶことへの好機心に溢れているせいか感じがよく、凛として美しいことといったら溜め息が出るほどの方もいて、レッスンに余分なストレスがなく、取り組むのが楽しかった。
自分の身体上で「ドット数」を増やしていくように、胸骨・肩・肘と部分ごとの構造やつながりを細かく実感することで、より繊細かつ的確に動けるようになるための稽古。そして、未知の相手にとっての「真正面」を感じ取り、相手を「観察する」のではなく「向き合う」ことをし、離れていて大勢が叫ぶなかであってさえ目標の相手に声を届ける稽古。
とにかく、「イメージする」などというのは先の話だし、「軸がぶれない」云々と後付で説明するような理論を先走らせるのは論外で、まず身体に自然な反応、動きをさせ、それを頭で認識して、再現性をもたせていく積み重ねを通して、身体・運動の能力を上げていくやり方。羽交い絞めにされていても、逃げようと無駄に動きまわると、相手も反応して締め付けがきつくなるだけだが、静かに小指だけを動かせば、その微妙な動きを相手の身体が感じ取り、反対側の腕が緩んで、逃げ出せる。「豆知識」的に紹介された、寝たきりの人を楽に起こす方法も、武道家自ら仰るように「手品」のようでいて、身体に秘められた能力を実感させられるものだ。意識があって目が見える場合と、意識のない場合のどちらも、頭で考えるのではなく、寝たきりの人の身体が「見ること」「床の振動を感じること」で自然に反応して、動くべき方向に動くことができる。
「型のある不自由な稽古は、自由になるため」。身体を粗雑に扱わないことで、意識がどんどん広がっていくであろう糸口の実感。「まだ玄関の戸を開けたぐらいで、中に入ってもいない」けれど、人と本当に対峙することにはなんと大きなエネルギーと集中が必要であり、難しくも面白いか(それなのに、いかに日常では省力化してしまって本気でないか)。単に知識でなく、体感として真に理解していく一歩。
不特定多数の聴衆や、時には見えない聴衆たちに向けて、言葉を発信する時の、「対峙する相手(目標)」の最も効果的な定め方(集合として捉える、個別、個別に順々等)を質問したところ、やはり具体的に一人、数人を定めるべきと答えてもらった。言葉のパフォーマンスや仕事の時に、ぜひ意識的に実験してみたい。
新しいことをしないのは停滞ではなく、時間は過ぎていくのだから、退化しているのだ、という講師の言葉も印象に残った。