綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

ゆっくりと夕方の翳を深める海際のテラスを後に、美術館の長い廊下を体温へ、新緑へと、歩いていく

こういう長い廊下は、何かの映画に出てきそう、と友人が言う。それで思い出したのは廊下ではなく、なぜか中平康の『砂の上の植物群』のラストシーン、エレベーターが開閉する長いカット。後になって思えば、夕方の海や、(実物は見なかったが)パウル・クレーの展示ポスターを目にしていたことからも、連想したのだろう。
午後の美術館ではその前に、サグラダ・ファミリアの彫刻家、外尾悦郎氏の講演を途中から聴いたのだった。非常に手馴れた感の運びで、彼自身の見解や強い穏やかな語り口の故か、ガウディの(時代・宗教的背景ゆえの)思想か、知識としては理解しても納得できない部分はある。例えばペリカンに象徴させる「大いなる愛」の解釈を拡大して、家族の一員が「喜んで犠牲になる」ことで他の家族を支える在り様を是とし、幸いであると、誰の見解とも明確でないまま、ごくあたりまえのこととして発言されると、いったい私は今この時この場でこの話を聞いているのだろうかと当惑してしまう。そして後に、「(個人の)根と繋がった言の葉こそが生きており、(願わくば、他者のそれを含めた)果実=魂の成熟に貢献しうる」との考えを耳にすると、それには非常に共感できると思いつつ、先の発言を思い出してみれば、発言者としての(影響力があることを前提としてほしい)立場との矛盾も感じてしまう。日本語での「犠牲」、あるいは「無私であること」の捉え方が孕んでいそうな、根底において西洋的な帰依、奉仕、愛と別の、ネガティブなニュアンスが、聴衆をフィルターとして再生産される可能性や、「西洋的な理解」自体にも、旧来の因習を便利に支えてきた「建前」の面があることなどを、私は並列的に見すぎ、危惧しすぎなのかもしれないが。
それでも、規定された仕事としての芸術作品を完遂させる矜持や知恵、謙虚であること、自我と社会の秩序の調和、人の「想い」こそが場を継続し成立させること等、講演のさまざまな断片が、(小規模で形も異なるとはいえ、同様に)静止した「完成」とは程遠い場での今の自分の日々の仕事に重なって響いたし、これからの個人的な仕事への構えを醸成していく糧になるのだろうという気がする。
特に、外尾氏が聴衆から、最も感動的な経験、魂のふるえるような瞬間は何かと問われ、一心に石を彫る仕事をした夕方、「ぽん」と音がして、道具類を手から取り落として力が抜け、「石の外」へ出る感覚、「それまでは、石を中から彫っているのです」と答えておられたのは、無条件に力強く、真実味のある、美しい言葉に思える。絵や詩を書いている時の感覚が一瞬、呼び覚まされた。
(教養や頭の良し悪しに関わらず、こじつけであっても理由付けしないと動けない人というは多くいるものです、と、夜に電話でお喋りした別の友人は言うのだが。しかし納得していないのに9トンの石を彫りたくはないな、と私。)

金星が逆行から順行へ向け、静止している日だけのことはある。
前夜のsmall hourは、書棚から読んでいない本が覗いているのが目に付いたので手に取ると、見知った著者のやっつけ仕事の感に苦笑いしながら、フーリエ晩年の論―無限に多様な善である快楽に拠る調和社会、偽善を配した女性の一生に必要な12人〜1200人の恋人云々―や、古代インドで一人前の女性が習得すべきとされた諸芸64種(料理、なぞなぞ、占い、詩歌、権謀術策...)など、面白い、金星の象徴領域的な記述も見つけた。それを早速、今日の午後には友人とも話題にして楽しんだし、外出前は普段できない掃除をしてすっきりしたし。帰路には一人で寛いで、毛並みのつやつやした縞猫が人目も憚らず毛づくろいするのを眺めながらトルティーヤラップサンドイッチのおやつを楽しんだし(グルテンミートやごぼうの具。以前より巻き方がしっかりして崩れない)、金星と結びつく花・薔薇の、ミニサイズで愛らしいバブルガム・ピンク色のを3本ほど貰ったし。帰宅してからはその花を、誕生日祝いに友人から贈られていた気楽な感じのCD、ピエール・マイゼロワ『サルサ』(という題名だけれど、マルティニーク産)を鳴らしながら、活け足したのにも満足。
何しろ朝一番から、アクアマリンにうっすらと色が戻り、ミニ水晶ともども中に何か「育って」きたように見えたし、別の透明水晶は一層、特に底部で、透明度を増して美しくなったようで、きらきらした光に、不意をつかれて驚いたのだった。
もちろん法律のテキストも開いてから就寝。