綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

ふさふさ繁る茴香を、一昼間で裸の茎にした小蟲らの影絵

そのフェンネル花言葉は、「賞賛」や「強い精神」なのだそうだ。
朝早くから気持ちよく動けない、考えられないのは、睡眠のリズムが崩れているだけが原因ではない。仕事場には遅めに顔を出すことになり、すいすい捗ったともいえないが何とか幾つかの用事をこなし、自分のことでも昨年から時間を作れず放置していた銀行関連の用事を一つ片付け、友人からの頼まれごとも(凝りすぎるのか、意外に手はかかったが)書類作成・発送・報告を完了して、少し、肩の荷が下りた気がするが、大事なことはこれからだ。
数日前に移動中に読んでいた田村隆一の本に、「詩人は詩を書くことによって詩を書く」という一節があった。ここにも書きとめておく機会を窺いつつ、ずっと気になっていた。それというのも、このところ暫く仕事の異様な密度や忙しさ、というより正確には気力体力の消耗から、しっかり日記をつけることができなかったから。深夜にブログページにアクセスしても、何を書くか一日を振り返って朦朧とするうちに椅子に座ったまま長い間眠り込んでしまう。特に前々日、前日はもちろん、その日の記事でも、タイトルに書くと決めている「五感に最も響いたこと、印象的だったこと」が明確に思い浮かばず、言葉にならないことで、日々の生活の中で自分の意識の在り方が危機的な淵にあるのを思い知らされていた。
記憶・言語化を通じて、環境に対して意識的に感覚を開いておくことで、「外から決められた手順」を観念・習慣で追うに終始するのではなく、自分の軸をしっかり持ちながら状況を俯瞰的・総合的に把握できると思ったし、それによって、体感を通した立体性のある言葉や美意識、全体と個の意識を鍛えていけると信じて始めたのに、それができていない。酔っ払いのオジイサンであった田村隆一の言だが直感的に納得できるところは多々あり、彼の言葉も借りると「感情の歴史」であるところの、内なる土壌が荒地となり、そこで重要になる「内在的技術=雑多な経験の中から自分だけの秩序を発見する能力」の、種が干乾びていく状態に他ならない。仕事の忙しさと共に首筋や肩の凝りが激しく、体操や呼吸の仕方で少しの間ほぐれても、ぶり返しては眩暈や目の痛み、どんよりとした頭の重さに繋がっていくのと併せて(それ以上に)、それらの身体的症状や現象自体より、もっと深い点に問題がある「危険信号」だろう。大げさなことでなくても、ほんの数秒でも窓の外を見て息をついたり、鳥の声や湯気の音に耳を傾けるような、柔らかな心持ちで丁寧に過ごせる時間を増やして仕切り直していくしかない。
「水」類の日課、テキスト、体操少々。