綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

朝、バスが地元に到着。
帰宅して、荷物をほどき、仕事場に連絡を入れ、今月分の水や「骨格の素」「頭脳の素」の荷物を受け取り、手洗いの洗濯物を干したりしていると、ふと疲れて横になったまま、珍しく昼寝をしてしまう。
料理や体操。二階にある部屋は蓄熱して、とんでもなく暑く、湿度が高い。本を読むのが苦しい。確実に33、4度は超えていると思う。

友人が電話をくれたのは、犬猫の扱い、最近私が紹介したWolf Solentを翻訳版で読み進めている感想(英文学らしい自然描写の豊かさ―フランス小説やロシア小説が室内・風俗描写は巧みでも自然の描き方が印象深くないのとは対照的だそう)や、それとは別の或る物語のプロットや登場人物書き分けの安定感と、身につまされる人物造形、少年少女の美しさへの憧憬(彼が最近実際に見かけた少年少女の集団には、小奇麗さや初々しさよりも動物らしさを感じてしまったこと)、「突出した美人」の辿った運命などの話題。
美人でなくてよかった、きっとその為に、たくさん物を考えるきっかけができたから―それで得をしたかどうかは分からないけれど、と私が言うと、友人は何故か不審げな、言葉にならない一声を挙げて絶句してしまった。しかし、思索の履歴は彼に比べればまだまだ浅薄ではあろうが、少なくとも女性であることが前提の美人や不美人であったことは、少なくとも10代や20代の殆どは、私には無かった。兄さんや姐さん呼ばわりされようが、おばちゃんじみていると評されようが、お世辞で佳人と称されようが、それらの外部に与える印象の根底にはどこか、通常・日常の時空で地に足着いた二極化した性別ある生き物ではなかろうと思わせる雰囲気があったのだろうし、それを当然の如く、自分の色合いだと自負してきた筈だ。「拘らない」「自分の在りようと仲良くなる」ことを決めた後も。でもそれはそれとして、常識でがんじがらめの家族・友人・師弟・仲間あるいは夫婦だの恋人といった関係性やセクシュアリティなどを超えて「愛」を枯渇させず、自他に惜しみなく発したいものだ。そんな、大昔に発して変化し続けてきたテーマを、改めて認識させられていた。
そう、決して見捨てない、大切にしているから、と自分の身体に無言で語りかけつつ眠る。