綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

後ほど

体操、マッサージ。大豆の粉を摂り、お白湯にルチルクォーツ、ローズクォーツ
昼食のお弁当用には、多めに炊けていた白米ご飯を拝借、南部の農業組合の梅干を添える。作ったおかずは、ひじきれんこん(人参入り)、小松菜とチクワ状のボウフと人参の煮浸し、日本系の南瓜の煮物。
帰路に武道家の講演会へ。参加人数が10人ほどと後はお弟子さんの聴講だけのこじんまりした集まりだったので、質問の時間もたっぷりあり、ワークショップのように実地の指導もしてもらえる。楽な歩き方、危害を加えようとする人が近付いてくる時の間合いを察して相手を指差して声を上げることで虚をつくタイミングの取り方など。(後者は、相手が掴み掛ろうとする一瞬前を狙うのが意外に難しい。同時になったり、見当違いに早すぎたり。相手の様子を見るよりも、「先制攻撃」を狙う意識が先走ったり、見ていても動作しようと先に構えているために、それをリセットして「次」の動きを出すことで遅れるようだ。)
「胸骨を2センチ上げるだけの仕掛けをする」ことで骨盤の位置が適正になるし(私の感覚では、「尾骨が巻く」ということだろう)、腰に負担なく身体が伸びて足が自然に前へ出て、「強そう」にも美しくも見えて護身にも繋がり、いくらでも楽に動ける。少し離れた物を取る時は、腕を伸ばして手先で取るというより、肘から取りにいく等、和服での動きが、いかに合理的で身体を痛めないか(逆に、洋服が自由に見えて、身体を不自由にしている場合がいかに多いか)。その武道家は、「丹田に力を入れるなんて論外。一流の人の動きを見るのが大事で、人の言う言葉をいくら聞いても、自分とは身体と言葉の感覚が違うのだから役に立たない。呼吸だとか、各部位が順番にこうしてこうして繋がった構造が云々なんて、へんに意識したら固まってブレてしまう。判断するのでなく、まず動き、それから自分で考えることが重要。心理的なコンタクトや『流れ』を意識する稽古はするが、『気」といった『本当のところが分からない』ことは追求しない。日本人は真面目といいながら、一つの方法に凝り固まってそれだけをしているというのは、自分のために自身でいろいろ観察したり考えることを放棄しているので不真面目」等々と、至って合理主義的立場。古流の武道の稽古、「ゆる体操」にも通じる概念が多く理解しやすいが、とてもシンプル。
質問してみたところ、自然で自発的な動き、左右均等の動きだけでなく、どうしても片側に重力がかかる状況(重い荷物を持ったり、ライフルを構えたり)も、基本は「胸骨を上げる」意識でバランスがとれて動きやすくなるし、体格による限界なんてない、限界を決めて身体を動けなくしているのは身体でなく頭でしかないよと、機嫌よく答えて下さるのには、勇気づけられる。何か行動するのに、へたに目的意識を持って凝り固まるより、ただ楽しいからひたすら実践することで、力が自然に発揮されるし、継続ができるというのもまた、納得できるし希望が持てる。
結局は身体の使い方よりも食生活という話題も出た。昔の日本人はほぼ菜食で、明治時代、箱根と東京の往復を三日続けて疲れない車夫にドイツ人の医師が肉食させたところ体調を崩して力が出なかったという有名なエピソードも交えながら、古いお弟子さんの一人の「実験」の話が面白かった。彼は科学者だそうだが、一日一食にすることで人間が(氷河期を乗り越えたようなDNAの)潜在力を発揮するに違いないと、この数年、自ら実験実践をして、50キロ歩いても疲れ知らずのうえ外見も若々しくなってきたという。それも極端に思えるが、私は完全菜食・砂糖抜きとはいえ、2.5食おやつ付きから、まだまだ改善や新たな実験の余地はあるとつくづく思う。刺激を受けた2時間半だった。帰りに歩く時は、早速、教えてもらった動きを心がけてみると、足の運びが軽く腰に負担がかかりにくい感じ。