綴りかた日記

はてなダイアリ―から移行しました(2019.02)

イチョウの巨木の枝葉に挟まれた、オレンジ色の月

体操やマッサージ、意識して水を摂ることなど、自分の身体の面倒をみる基本的な日課は何とか続けるが、どうも通り一遍になってきている気がする。身体をゆるめる筈の体操も、楽にできる同じパターンの動きに偏ってしまいがちだし、使わずに縮んでいる部分があるように思えたので、以前にやっていた筋肉を(力づくでなく)伸ばすような動きもしてみると新鮮で、身体の構造に対する意識の助けになって気もする。

身の周りを片付けるつもりが、どうも捗らない。近所の商店街の青果店へ買物に出たついでに書店に入り、いつも見ない奥の棚のほうへ進むと、大人のADHDに関する本があり、苦笑しつつ購入してしまった。無用な無理をしないことと、長期展望や計画性の必要。

秋田県阿仁町マタギに関する本『マタギ―矛盾なき労働と食文化』も、ヴィーガン1年目が近いのと狩関連の事柄が身近だったせいか、目に付いて購入。マタギであり袋ナガサの鍛冶であった西根正剛氏の仕事や人となりが描かれていたのは予想外で、何年か前に知人から話を聞いた時にはおぼろげなイメージの断片だったのが、やっと一人の人物像らしきものを結びだした。特別な獣の狩だけを(単なるセンセーショナリズムや安易なロマンティシズム、また、「学術的関心」という言い訳も含めての)興味本位から記録するのでなく、何年にもわたる、身体を張った取材と交流を通じて、川魚や茸を採る山の営みや、現代の町の暮らしぶりを、「素人」「初心者」の目から総合的に捉えてあるのも、貴重な本に思える。もし、伝統が伝統であるというその一点の理由だけから守るべきとしたり、自分では何もせずにただ消えゆくのを惜しんで詠嘆するのが読者の反応であるとすれば、ナンセンスだと思うのだが。
読んでいると、元々、旦那芸的な、銃を見せびらかすのが目的の如き射撃やスポーツハンティングに異を唱えていた友人が、猟の伝統を持つ人々と山や雪原に入った結果、どうやら更にその考えを強めているのが、これまで概念として共感していた以上に、あくまでも擬似的だろうけれど体感として腑に落ちる感じがした。
おそらく経済に起因しない非肉食の理由としてかなり世に多い「かわいそうだから」「気持ち悪いから」「自分で殺すことはできないから」食べないという見解が、深く魂を震わせたり考え抜いた結果導き出されたものであれ、厳寒の海に足を入れるのを引っ込めたように素朴で直裁的なものであれ、それは人それぞれであって然るべきだし、正解や不正解は無いと思える一方、それを裏打ちする、食も含めた生死の営みに対する感覚が、人間だけ(や、何らかの恣意的な区分に入る動物だけ)をいたずらに特別視するものであったり、あるいは多様な生物の中の人間でいることの自覚を踏まえないものであったり、(いくら理論武装していても)何か別の強力なイデオロギーによってふっと差し替えられてしまう感傷的概念への盲従でしかないとすれば、私個人の身に当て嵌める場合に限って言うと「まずいことだ」という気がしてならない。パック詰めのキレイな薄切りの切り身とは程遠い形の肉や魚を文字通り日常茶飯のうちに手に入れて料理したり、特別な機会の肉食が「屠ること」と(多くの現代都市の日本人よりも)生々しく結びついた文化の端っこや、逆に非肉食推奨と結びついた動物愛護、マクロビオティックナチュラルハイジーン、精進料理などからカミ懸り的な言説にも、各々に納得できる点を見ながら螺旋的に接してきたその後の間、頭だか心の片隅に引っ掛かっていたのは、10代初めの頃、同級生が突然非肉食になり、そのこと自体はともかく―そしてヴェジタリアニズムにも(英文学やパンクへの親しみといずれが卵か鶏か)かなり肯定的な想いを持っていたのだが―、今思えば感性が先走る思春期ゆえかもしれない彼女のヒステリックな「かわいそう」「気持ち悪い」発言には「偏食で我が儘じゃないか」と、これも今思えば一面的で失礼な違和感というか反感を覚えたことだと改めて気付く。自分自身では、誠実であろうとすればまだ当面は(本当は他にもあれこれ倫理なり理由があるにしても)「主に健康のための自己人体実験として、暫定的にダイエタリー・ヴィーガンです」と言うぐらいが最も適切なのかもしれない。